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新潟の堀の歴史について知りたいのですが
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新潟の堀は,昭和初期までは新潟町や沼垂町のような町場では,舟による商品の輸送路などとして,また農村地域では用排水路,稲や肥料などの輸送などに利用されていました。
<近世新潟町の堀>
新潟町は,江戸時代前期に浜手の砂丘地から現在の中心市街地に移転しました。新潟町の堀は,この時に作られました。新しい町並みは,上は白山神社境内地,下は洲崎町(古町通13番町)まで,幅は現在の上大川前通から西堀通まででした。信濃川と平行して,寺町堀(西堀)と片原堀(東堀)が町を貫き,この二本の堀と信濃川を結ぶ御菜堀・広小路堀・新津屋小路堀・白山堀(一番堀)が掘られました。後に,新堀が掘られ,信濃川に入る堀は5本になりました。
<近代新潟町の堀>
明治5(1872)年,新潟県令(後の新潟県知事)に着任した楠本正隆は,新潟町を開化の町並みにしようとして,地名や町名も分かりやすいように改めました。このとき,寺町堀を西堀,片原堀を東堀と改め,白山堀・新津屋小路堀・新堀・広小路堀・御菜堀は,それぞれ一から五番堀と改められました。
<消えた堀>
大河津分水ができた大正末頃から,堀の水の量が減少し,夏場には渇水して衛生上問題があると言われるようになりました。荷物が舟ではなく自動車で運ばれるようになると,道路の拡張を求める声も上がってきました。昭和18年に,他門川の半分が埋められ,昭和27・28年に全面的に埋め立てられました。昭和30年の新潟大火以後に東堀が埋め立てられ,昭和39年までに西堀も埋め立てられました。
※詳しく知りたい方は,『新潟の堀と橋』(新潟歴史双書5)をご覧ください。さらに詳細につきましては,歴史文化課歴史資料整備担当までお問い合わせください。
<お問い合わせ先>
文化スポーツ部歴史文化課文書館 電話 025-278-3260
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- 最終更新日:2022/01/13
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